共感と未来を読むこと

ファッションは共感です。ファッションデザイナーの仕事は未来を読むこと。そんなデザイナー2人に言われた言葉。ファッションとお洒落がメインです。

モード産業=広告産業

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ルプリ続きです。



モード産業っていうのは広告産業になってしまいましたね。

広告を産業化する事、今の時代の僕がある種のバリエーションだと、産業のバリエーションになってしまっている。

単純に言ったらサッカーも僕は広告産業だと言い切っています。

全てある種の実態を広告化する事、実態をイメージ化する事になりますけど、それが最終的には消費に繋がるというところで、モード産業は広告産業であると。

それから、クチュールは夢を見せる事であって、プレタは現実とリアリテを売る事である。

この弁えもちょこっとはっきりしだしています。

俗に言われるラグジュアリーブランドビジネスの根幹は、それぞれのブランドが持っていけるオートクチュールっていう主体骨があって、それがあるがために、ラグジュアリーブランドがビジネス化出来るっていう構造になっている。

このラグジュアリーブランドビジネスがどんどん進化して、進化するためには、その後ろにあるクチュールっていうのは維持するのは大変だけども、これを解してはダメだっていうのが今のパリの現実です。

時代性っていうのは、家で、みんなで安心、安全そして、快適に!っていうこれが開けたら20年位前に一回このコンセプトである企業にプレゼンをした事があるんですけども、まぁ、家でっていうのは家族、友達、インテリアっていうインサイドっていうところに家族だとか友達だとか自分の関係性の中で、安心、安全、そして快適な。

安心、安全でいくと僕は鎌倉に住んでいて、たまに東京に出てくる時に電車に乗る。

帰って来てから感じた事は案外若い人達が電車に乗る時にドアが開いたらすぐに席を求めてかけ走るのは若い人が多いなっていうのがやけに感じるんです。

多分、空いてる席を求めて座って、座ったら彼等は何をするかいうたら大体携帯を出して。

これも僕流に言ったら特有の若い世代の自分達に潜在的に安心、安全を求める行為が電車の中で席を求めるっていう僕はそういう読み方をしているんですけども、それぐらい、多分、今の時代は、特に日本の場合は本質的には色々な問題は沢山あるんですけど、それをひとつ横に置いておけば、案外簡単に安心が手に入るような社会構造になってしまっている。

このような時代性では、形骸的なデザイン、いわゆるアート志向的、エゴな物を作っても、それがデザインっていうカテゴリーではなく、またマスとしては売れない時代ですよねと。

当然アート志向はアート志向で大事ですけども、ファッションデザインというカテゴリーの中では、やっぱりファッションはアートではないです。

デザインのカテゴリーです。

だからそういう意味では僕は自分達のデザインスキル、技術とデザイン美意識によってどれだけ社会にコミットして下さいよねと。

という事は自分の作るべき世界、作りたい世界でどれだけある種の売り上げを取ってくれる、取らなければならないのがデザインビジネスですよと。

変わりなく僕のファッションにおけるある種のベースにあります。

こういうエゴで物を作って、最終的にそのエゴを誰がリスクとコストを背負いこむのかっていうところが、僕に言ったら、その個人の倫理観になるでしょっていうところなんですけど。

この倫理観が、これからもっとクリアにしていけば、ある意味で倫理観が洗練さを持っているところに行き着くだろうと思うんです。

従ってモードの世界も現代という時代性の王道を行く、工業製品のプライドの復権の時代っていう時代に入り始めているんじゃないですかと。

クチュール=手工芸の世界とラグジュアリーをトップとした既製服の世界、そしてファストファッションとの棲み分けがこの21世紀型の新たなスタンダード化され始めてきた。

モードファッションっていうのは僕流に言ったら、これもひとつの一種のあり得るべきスタンダードとしての新しいファッション思考の物であって、決してこれがファッションじゃないというところです。

モードファッションで売れてるブランドって結構あるわけです。

デザイナーの中でも。

例えば、アーペーセー、ギャルソンのプレイですね、あのレベル。

ファッションではなく、足元を見ると、去年でいくとニューバランス、今年は少しミヤケが入って、必ず足元が今みんなトレンドになってますね。

それで言ったらファッションっていうのは、このアンテナ、今の時代のリアリティがイメージよりも先行したところで生まれて来た、ひとつのファッションの流れという事です。

それは、ひとつ目のモード産業がどういう風に構造が変わったかっていう事を次にお話しします。



モード産業っていうのは僕流に言ったらクチュールビジネス、ラグジュアリー、プレタポルテ、アパレル、ファストファッション

これが多分モードファッションのカテゴリーだと思います。

それから、お仕立て物を受け皿がありますっていう世界、その仕立て物の世界がある種のラグジュアリーファッションを生み、それがプレタポルテっていうセカンドラインを出すと。

それからそういう動き、そういう感性、そういう美意識、そういう時代性をよりマスの中で落とし込んで、それなりのディストリビューションで成り立っているのがアパレル。

それから21世紀になって出て来たファストファッション

多分このモード産業のカテゴリーはそれぞれディストリビューション、ビジネスの手法が違う事によってカテゴリーライズされている。

それから一番新しい動きは僕は+ヴィンテージっていう事だと思います。

その中で新たな産業化されてこれから、スローファッションっていうカテゴリーがモード産業の中の新しさの中、21世紀のスタンダードの中に加わってくるだろう。

これは日本でもこれだけの消費社会ですから、どんどん捨てるだけの洋服がいっぱい、古着の山がいっぱいあってそれぞれそれなりの中間、アンダーグラウンドな世界で中間業者があって、それが最終的にはウエスという機械を掃除するための雑巾になってしまうと。

そういう世界に若い人達をそこに呼び込んで彼等がチョイスするヴィンテージを選んで、それをある種リメイク、リプロする。

このスローファッションは、これからのもしかしたら、上にあるカテゴリーとは違うところで若い人達が案外鮮度を保って参入出来る可能性があるファッション産業になると。

それからラグジュアリーレベルでは、個人デザイナーからアトリエ主体型へ。

この発端は、結局はファッションデザイナーよりも、これからの時代はファッションディレクターっていう立ち居場所が、オーケストラで言えばコンダクターがファッション産業の主役になって来るんじゃないですかというところに行き着くんですけども。

アトリエ主体型になって、アトリエのチームを誰がディレクション出来るかっていうアースティックディレクターの方がデザイナーよりも前に出て来るだろうと。

実際これはラグジュアリー系では出て来てます。

それはディオールにおけるラフ・シモンズ氏であり、例えばサンローランにおけるエディ・スリマン氏。

もう少し前でいくと、バレンシアガのニコラ氏からアレキサンダー・ワン氏。

アレキサンダー・ワン氏っていうのはニューヨークのデザイナーです。

拠点がニューヨークです、だから調べたらワン氏はバレンシアガのデザインに対しては基本的には全部ニューヨークでディレクションしてます。

パリに来るのはコレクションを構築するため、それからコレクションで自分が出るため、後は、そのコレクションを広告、ミーティングの時にアースティックディレクションをやるっていうだけでパリに来てて、基本的に自分のコレクションを構築するために、わざわざパリに来て、パリのアトリエ、バレンシアガのアトリエの中でって事は一切やっていない。

って事はほとんどディレクション作業でしかない。

ということで、現代のある種のラグジュアリービジネスにおける構造はディレクター志向に、それもアースティックディレクター志向になってきてる。



じゃあファッションデザイナーとファッションディレクターの違いがどこなのか。

これが問題であるっていう事と、違いを熟知した上で、それをシステムに今現在どこの国もどこの学校も落とし込んでいない。

というところが今の時代のファッションにおける社会システムのある種の綻びのひとつだと。

それからリアリティに対してヴァーチャルリアリティ+イメージングの三位一体化構造。

これもファッション構造の中では現実になっています。

これをどうイメージングディレクション出来るかがある種のファッションデザイナーとディレクターの差だと思います。

例えばアースティックディレクターっていうのは、僕流に言ったらいつから始まったかっていったら、我々が知っている範囲で言ったら1992年のトム・フォード氏です。

それまでグッチっていうイタリアの老舗鞄屋さん、靴屋さん、いわゆるファッション用品老舗店にトム氏っていうディレクターが起用されて全く新しいグッチワールドがディレクションされた。

それ以降、ファッションディレクターっていうのがクローズアップし、前に出て来て、これが今、去年ぐらいから、ほとんどのラグジュアリーブランドはファッションディレクター的な構造と立ち居場所を与えて、彼等も感覚で、物作りを行って、いわゆるブランド作りを行って、物作りはそのチームがやると。



はい、この辺で一旦区切り。
続きます。